江戸時代になり安全に諸国を往来できるようになると一般的に湯治場として利用されるようになったようです。温泉の湧く川沿いには、身分により13の浴場が作られていました。浴場は、主に湯屋(旅館)が管理し湯賃を取って運営していました。また湯株という制度を設けて湯屋の経営を制限していました。湯屋には芸妓娼妓を置く事を許され料理や酒の提供も行っていました。当時すでに30軒あまりの湯屋がありました。当時の宿は、木賃宿であったと記述され米味噌醤油に値段を定め宿泊客の便宜をはかったそうですが芸妓などを置いていた事から実際には食事付きの「旅籠」であったと推察されます。
湯原に一番多く人が訪れるのは、大山での牛馬市が開かれる4月から9月までだったようです。山陰山陽を結ぶ大山道沿いにある為、この期間は、「大泊まり」と呼ばれ連日、宿泊客で溢れ繁盛を極めたそうです。この有様は、明治後半まで続きました。
明治も後半になると他のライバルとなる観光地も増えてきました。また一番には鉄道の整備が行われ人の流れが変わってきました。この頃から湯原は、湯治場としての本来の姿に戻っていきます。
上の写真は、昭和初期(s06?)の温泉街の様子です。露天風呂も現在とは様子が異なります。橋のある風景は、手前が「湯山橋(通称:河鹿橋)」、奥に見えるのが「鼓橋」です。バックが鼓岳でこの橋の上で手を叩くと鼓の音のように「ポン、ポン」と岩肌に音が反射して聞こえてくる事から呼ばれるようになったそうです。
上は、昭和6年頃の真賀温泉の様子、真賀・足の両温泉は、温泉郷内では勝山の駅から10キロ程度と便利で賑わっていた。右の写真は、湯原の温泉館前の様子。道も随分と狭い。
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